武術関係を中心に大好きな古い写真(老照片)を紹介していきます。写真中の御本人、もしくは御家族の方、肖像権をお持ちの方等で、ここでの掲載を止めて欲しいと言う要望がございましたら、至急管理人までお知らせ下さい。詳しくは私のHP『武藝大世界』をご覧下さい。(http://yunyou.web.fc2.com/home.html) 文責はすべて片桐個人に帰します。またこのページへの無断リンクはお断りいたします。
開館2007年1月15日
*コメント投稿*
無題
台湾に渡られた六合蟷螂拳の伝承は張詳三公と劉雲樵公は日本でもよく知られていますが、もう一人の傳嘉賓公については殆ど語られることはないですが、どのような方だったのでしょうか。前述の二公に比べて丁子成公より学ばれたレベルは低かったりするのでしょうか。
無題
>王文山さま
非常にコメントに困る内容でしたので返信しておりませんでした。お許しくださいませ。
誤解のなきようにしていただきたいのですが、我々後輩が勝手に語れるようなレベルの高低は先達の間にはないと思います。
ご存知の通り、1949年以降の台湾はまさに中国全土の武術の見本市でした。強兵といわれる軍隊には武術家が多かったですし、また群雄割拠の民国期は中国全国からの徴兵がありました。ただ、後の台湾には、それだけの軍隊を収めるほど余裕が無かったのも事実です。日本の江戸時代と同じで、戦の収束は兵士の大量のリストラを生みました。彼等はスズメの涙ほどの退職金だけで不慣れな土地に放り出されました。そしてその中に傅公がおられました。傅公は生活のために賣藝の道を選ばれました。社会的には決して評価されない道のりです。ただ、ただ、好きな武術を生活のためだけに棄てないこと、武術と両立することを選ばれたのです。実は、師兄弟の張公も劉公の両公はもともと学があり、更に国民党の上流階級に伝手がありました。同じ師兄弟でも一兵卒で来台した傅公とは同じ立場ではありませんでした。それが後の世の評価を分けてしまうことに繋がるとは悲しいことと想います。
現在、われわれ日本人愛好者が憧れの眼で見ている台湾武壇第2代の名師たちが居られます。彼等であっても頭が上がらない存在が同世代に居られます。それが現ベネズエラ在住の傅松南老前輩です。その名の通り、傅公のご愛息です。何故頭が上がらないのか。それは傅公が台湾に渡る前から傅公に随い戦地を転々とし、来台後は多くの北派武術の名師に愛され教えを受けた方だからです。しかも国民党政府の来台後、初の第1回全国散打大会(徒手・兵器)の少年組の優勝者です。ちなみに螳螂門の王松亭公は老年組、査拳門張英健公は中年組の優勝者です。現在、この傅前輩の栄誉を奪い、自分自身のこととして剽窃する方も居られます。私はそのことに強い反感を憶えます。
傅公から話が外れてしまいましたが、それほどのご子息を鍛え上げ、なおかつ当代一流の名師たちと深い親交のあった方です。その方をさしてレベルが低いかという問いかけはあまりにも悲しすぎます。
ちなみに簡単なプロフィールです。傅公は招遠の地方名家の生まれです。幼い頃から武術を嗜み、学生時代に龍口で過ごし丁公に随い七大弟子の一人に挙げられました。卒業後は故郷に戻りましたが、立身出世を求めて東北のハルピンに旅立ちました。ハルピンでは仕事をしながら、劉峻嶺公や吉萬山公といった河北系の名師に随い藝を深めました。武術を通じた交友も幅広く、多くの流派の友人と日夜、手を交わす練習に明け暮れたそうです。ちなみに、私が1999年にハルピンを訪ね数名の老前輩にお会いした際、老前輩の思い出話の中で傅公の名前が何度も出てきました。ハルピン後の傅公の消息をご存じなかったようなので、台湾に渡られたことや、ご子息が立派な武術家であることを伝えたところ、我がことのように喜んで居られました。
非常にコメントに困る内容でしたので返信しておりませんでした。お許しくださいませ。
誤解のなきようにしていただきたいのですが、我々後輩が勝手に語れるようなレベルの高低は先達の間にはないと思います。
ご存知の通り、1949年以降の台湾はまさに中国全土の武術の見本市でした。強兵といわれる軍隊には武術家が多かったですし、また群雄割拠の民国期は中国全国からの徴兵がありました。ただ、後の台湾には、それだけの軍隊を収めるほど余裕が無かったのも事実です。日本の江戸時代と同じで、戦の収束は兵士の大量のリストラを生みました。彼等はスズメの涙ほどの退職金だけで不慣れな土地に放り出されました。そしてその中に傅公がおられました。傅公は生活のために賣藝の道を選ばれました。社会的には決して評価されない道のりです。ただ、ただ、好きな武術を生活のためだけに棄てないこと、武術と両立することを選ばれたのです。実は、師兄弟の張公も劉公の両公はもともと学があり、更に国民党の上流階級に伝手がありました。同じ師兄弟でも一兵卒で来台した傅公とは同じ立場ではありませんでした。それが後の世の評価を分けてしまうことに繋がるとは悲しいことと想います。
現在、われわれ日本人愛好者が憧れの眼で見ている台湾武壇第2代の名師たちが居られます。彼等であっても頭が上がらない存在が同世代に居られます。それが現ベネズエラ在住の傅松南老前輩です。その名の通り、傅公のご愛息です。何故頭が上がらないのか。それは傅公が台湾に渡る前から傅公に随い戦地を転々とし、来台後は多くの北派武術の名師に愛され教えを受けた方だからです。しかも国民党政府の来台後、初の第1回全国散打大会(徒手・兵器)の少年組の優勝者です。ちなみに螳螂門の王松亭公は老年組、査拳門張英健公は中年組の優勝者です。現在、この傅前輩の栄誉を奪い、自分自身のこととして剽窃する方も居られます。私はそのことに強い反感を憶えます。
傅公から話が外れてしまいましたが、それほどのご子息を鍛え上げ、なおかつ当代一流の名師たちと深い親交のあった方です。その方をさしてレベルが低いかという問いかけはあまりにも悲しすぎます。
ちなみに簡単なプロフィールです。傅公は招遠の地方名家の生まれです。幼い頃から武術を嗜み、学生時代に龍口で過ごし丁公に随い七大弟子の一人に挙げられました。卒業後は故郷に戻りましたが、立身出世を求めて東北のハルピンに旅立ちました。ハルピンでは仕事をしながら、劉峻嶺公や吉萬山公といった河北系の名師に随い藝を深めました。武術を通じた交友も幅広く、多くの流派の友人と日夜、手を交わす練習に明け暮れたそうです。ちなみに、私が1999年にハルピンを訪ね数名の老前輩にお会いした際、老前輩の思い出話の中で傅公の名前が何度も出てきました。ハルピン後の傅公の消息をご存じなかったようなので、台湾に渡られたことや、ご子息が立派な武術家であることを伝えたところ、我がことのように喜んで居られました。
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六合門 形意八卦門 『大槍』劉徳寛公
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